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東京都江戸川区の方から屋根修理についてご質問がありましたのでお答えしたいと思います。

もし魏志倭人伝に書かれていることが全て正しいと仮定すると、邪馬台…

もし魏志倭人伝に書かれていることが全て正しいと仮定すると、邪馬台国はどこにあることになるのでしょうか?

倭人伝通りなら、伊都国から末盧国経由で壱岐までが千五百里、同じく伊都国から奴国経由で千五百里で女王の都するところで...

(質問のあった日:2018年9月16日)

邪馬台国、魏志倭人伝、畿内、光谷拓実、ひむか、熊襲、元興寺についてのご質問のようですね。

ではこちらの相談に答えていきましょう!

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では、さっそく上の質問に答えて行きましょう!

この屋根修理に関する質問に対する回答

倭人伝通りなら、伊都国から末盧国経由で壱岐までが千五百里、同じく伊都国から奴国経由で千五百里で女王の都するところですから、奴国から南行すれば、旧山門郡あたりに行きます。

その辺り及び隣接する八女市、久留米市あたりが邪馬台国の中心部だったのでしょう。

ただし、数は誇張ですが、戸数7万戸と他の諸国よりも隔絶して大きいと言う様に記述されてますのでその領域としては筑紫平野佐賀平野全体に及んでいたと思われます。

北接して奴国、フミ国、伊都国があったと思われます。 つまりこれら諸国は互いに隣接してたのです。

天皇家の祖先は卑弥呼か台与に近い王族だったと思われます。(台与が有力、血筋かも) 卑弥呼と台与がアマテラスに神格化されたものでしょう。

それは天の岩戸伝承に神話化されています。

天の岩戸伝承は明らかに日蝕に関わる神話ですね。

これは、247年3月24日午後6時25分頃に起こった97%日蝕(ほぼ皆既日食)が神話化したものと思われます。

この年には、邪馬台国では

1、卑弥呼が死亡した。

卑弥呼は日の巫女か御子で明らかに太陽に関わる尊称です。

2、男王が後を継ぐも国中服さず相い攻伐して千人以上が死亡する。

3、南の狗奴国と紛争になり苦戦して魏に助けを求める。

と社会的大凶事が重なります。

その為に古代人にこの日蝕が不吉な大変異として強く心に残ったのでしょう。

春分の頃の 6時25分ですから日没時の落日が大きく欠けて行きながら沈んで行き、(新月だから)真っ暗な闇夜になった、と言う事も不安と恐怖を一層高めたのでしょう。

これにより、卑弥呼は単なる日の巫女(御子)ではなくアマテラスオオミカミ(天照大御神)に大きく格上げされて神格化されたのです。

さらに、翌年の248年の9月5日の午前6時頃にも上り行く朝日のかなり深い部分日蝕がありました。

これが、新女王の台与の登場と結びついて、これらの日蝕が天の岩戸伝承になったと考えられます。

この台与はもしかしたら、天皇家に血筋が繋がっている可能性があります。

すると天照大御神の血統が天皇家の祖先と言う可能性もあります。

なお、卑弥呼と台与の二人の女王をアマテラスに神格化していますが、伊勢神宮では天照大御神とそれを受け継ぐ豊受大神があり、この場合は卑弥呼と台与を区別している事になります。

そうすると、この二つの日蝕を観察できた所に邪馬台国があった事になります。

それは北部九州です。



畿内ははじめの日蝕は観察できない地方ですから。

なぜなら、春分の頃の日没時間は北部九州よりもはるかに東に位置する畿内地方では6時25分は既に日没後だったからです。

ここにも、邪馬台国が北部九州にあったと言う根拠があります。

こうして、邪馬台国が北部九州であったと考えるといろんな事が合理的に結びついてくるのです。



一方、畿内説は単なるこじつけです。

その根拠は炭素年代のみ。

その炭素年代も国際標準曲線ではなく、光谷拓実氏のみ(最近弟子の一人も)が作成した年輪年代法による日本産樹木の較正曲線に基づくと言う代物です。



しかし、その年輪年代法によれば、670年に全焼し、701年から710年頃に再建された法隆寺の五重塔の芯柱は594年伐採となってしまう。

他にも記録と百年以上古く食い違う事例が多数出てくるのです。

すると、炭素年代も百年古く狂ってきます。

以下、その鷲崎氏の論文。



1、法隆寺は 607 年に聖徳太子により創建されたが、五重塔心柱(樹皮型、年輪 354 層、直径 82 cm。1941~1952 年の解体修理に際し厚さ 10cm の円盤標本が切取られ京都大学に保管されていた)は 594 年伐採と測定された (2001 年)。しかし、法隆寺は 670 年に全焼(『日本書紀』天智九年)、7 世紀末~8 世紀初の再建とされる。100 年の誤差が生じ現在も理由不明のままで、光谷拓実も「多くの新説を期待するのみ」とする(『日本の美術』421 号 2001 年)。法起寺三重塔心柱(心材型、直径 70cm。測定年代 572+αに対し 706 年建立:『聖徳太子伝私記』) も建立記録と 134 年違う。法隆寺五重塔心柱は最外周の樹皮が残っており、加工時にほとんど削られていない。 これを踏まえ、光谷拓実(=年輪年代法考案者も心材だからといって目を背けずに考察している)も法起寺三重塔心柱が 100 層以上削られたのは疑問とする。現状は (光谷氏は)100 年前の古材利用 と説明しているが、年輪年代を 100 年修正して共に新材のヒノキとするのが正しい。五重塔や三重塔の心柱は建 築構造上もっとも重要で、建築学からは 100 年前の古材を転用するなど考えられない(鈴木嘉吉)。



以上のように建築学の専門家も、「古材の転用などあり得ない」としているが、畿内説では古材だ!と主張するしかない。



他にも、記録がハッキリしている事例との付き合わせで記録よりも百年以上伐採年が古くなってしまうケースが数多く存在する。



以下その論文。



2、奈良市元興寺禅室(僧房の一部を鎌倉時代の 1244 年に改築)の巻斗(建物の横材を支える部材。樹皮型)お よび頭貫(屋根裏の横柱。樹皮型に近い辺材型)も、伐採年代 582 年、586 年頃に対し建立は 710~718 年:『続 日本紀』『元興寺縁起』で、同様に 100 年ズレている。596 年建立の飛鳥寺(当初は法興寺または元興寺で、後 に飛鳥寺と名称変更)は、平城京遷都に伴い飛鳥から平城京へ移転した(『続日本紀』718 年)。しかし、平城京 の元興寺は移築ではなく新築で、飛鳥の元興寺は「本元興寺」としてそのまま残り、併存していたとするのが通 説である。現に、日本最古の仏像「飛鳥大仏」(製作は『日本書紀』606 年または『元興寺縁起』609 年)は 21 世紀の今も飛鳥寺に鎮座し、本尊を安置する金堂も飛鳥に当然残ったはずだ。、、



滋賀県紫香楽宮跡から出土した9本のヒノキ柱根は、No1~4が樹皮型、No5は辺材型で、『続日本紀』の 記録(紫香楽宮は 742 年に建設を開始し 745 年に短期間都とした)と一致する(表 1)。ところが、No6~9は 心材型で最外年輪は 530~562 年の形成と判定された(1985 年測定)。そうすると、『続日本紀』とは 200 年の 違いがある。ヒノキでは年輪 1 層(1 年)は平均 1mm で、200 年では半径ベースで 20cm 直径ベースでは 40cm にもなる。No6~9は直径 40~50cm の掘立て柱で、直径 80~90cm の原木を外から 40cm も削り仕上げた柱とは考えられない。

以下、

(たとえ、多くの年輪分を削りとったとしても)

削り取られる年輪数は辺材部を含め、最大100層である。

と言うことは、(以下概要)記録との違い200年から最大削り分100年を差し引いても、なお、記録よりも100年も古く伐採されたことになる。

畿内説ではこれも100年前の古材の使用としなければ成り立たない。



また、

4東大寺正倉院の事例でも、AD640 年以前の測定値を示す No1~3、No8~11 も全く同様である(表 1。2002 年および 2005 年測定)。このように、記録と照合可能な 15 事例(法隆寺五重塔心柱、法起寺三重塔心柱、元興 寺禅室巻斗および頭貫、紫香楽宮跡 No6~9柱、東大寺正倉院 No1~3板・No8~11 板)では、AD640 年 以前の測定値が全て 100 年ズレている。これら以外に記録と検証可能な事例は存在しない。仮に測定値が正しけ れば、15 事例(表 1 で「×」表示)は全て 100 年前の古材利用・風倒木利用となるが、それは有り得ない。

以上。



例えば、古材、新材の可能性を全事例で五分五分としたとしても、畿内説が成り立つにはその全てで百年以上古い古材でなければならず、その確率は2の15乗分の1となる。

つまり、640年以前では年輪年代法が正しい確率はほぼ0%なのである。

炭素年代法とは、このほぼ100%百年古く間違っている年輪(日本産樹木の年輪)を基準とした較正曲線によって得られた年代なのです。





では、どうやって実年代を図るか?

実は炭素年代よりも確実な手法がいくつもあります。



例えば、ホケノ山古墳の画文帯同向式神獣鏡があります。 この銅鏡と同じ様式の鏡は楽浪郡の跡地で楽浪最終期土器と共に出土しています。

最終期と言うのは楽浪郡の滅亡が313年なので、その直前期となり、290年代~313年代頃と考えられます。

さらに、楽浪郡最終期の土器と共伴出土の銅鏡には、徳島県の萩原2号墳丘墓から出土した画文帯同向式神獣鏡と傷口まで一致する兄弟鏡があります。

これら楽浪郡の被葬者の埋葬時期はいずれも楽浪郡の滅亡直前期(楽浪最終期土器時代)と考えられます。つまり、290年代から313年の間です。(炭素年代より遥かに正確です。)

そうすると、萩原墳丘墓やホケノ山古墳の埋葬時期もそこから遠くないやや遅れた時代と考えられます。萩原墳丘墓が31、20年代前後、ホケノ山古墳が32、30年代前後、その後に箸墓古墳が築造されたのです。 (33、40年代頃)

つまり、4世紀前半です。

他の指標ではどうか?

これは、記紀の記述の(4世紀前半の人物とされる)崇神天皇が箸墓古墳を築造した、と言う記事(モモソ姫を大市の地に埋葬した)とも一致します。

また崇神天皇の活動時期を考える指標として埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣があります。

その銘文にはヲワケの臣が471年に作らせた、とあり、そこから7世代前の上祖オホヒコは、崇神の伯父のオホヒコノミコトと考えられます。

つまり、崇神は6世代前です。中世ながら関東に定着した土豪の6世代を調べると、約140?160年程です。つまり471年の約14~60年程前の31~40年代=4世紀前半が崇神の時代となり、やはり一致します。

ちなみに記紀の記述では崇神の死亡年は318年と、やはり、4世紀前半としています。

この様に炭素年代以外のほぼ全ての指標が箸墓古墳の築造年代として4世紀前半を示しているのが実態です。





参考として薬師寺の大修理中の五重塔の芯柱の写真を添付します。

こう言う芯柱などの場合は、やはり最外輪の年輪は殆ど樹皮直下である事が分かります。

この回答は、あなたのお役に立ちましたでしょうか?

この他にもいろいろな考え方や意見もあると思います。

塗装は塗料を塗るということから、お風呂やトイレのように現物という形のあるものではありません。
なので、一見するとキレイに塗られているようで、実は薄塗りをされてしまっていたというケースというのもあります。
薄塗りされてしまった場合、耐用年数が短く、数年で色落ちが起きてしまい、美観を大きく損なうことになってしまいます。
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屋根修理に詳しい管理人からの補足コメント




◆また、古田 武彦氏は邪馬台国ではなく邪馬壱国だ、と言う視点で次のように述べている。



 ところが、これについて新しい史料が見つかったわけです。それは一四ぺージ史料の三のbにありますもので、『隋書』「経籍志」です。、、七世紀はじめの隋の時代に、中国の朝廷を中心としたところに存在したすべての本の名前があげてあるのです。、、この『隋書』「経籍志」の中に、、私は、、見つけたのです。

 、、「魏臺雑訪議(ぎたいざつほうぎ) 三巻 高堂隆撰」です。「魏臺」というのは、、(天子)、それをさしているということがわかってきたわけです。

 そうしますと、、陳寿(ちんじゅ)が、「邪馬臺(たい)」などと、天子一人をさす「臺」の字を持ってきて表記するということは、絶対にあり得ない。「ダイ」に当てる字はいくらでもあるんですから。、、臣下が天子を「臺」と呼んでいるのです。だのに、、



確かに、邪馬台と言うのはおかしい。

 





◆魏志倭人伝とは、シナ人が倭国について伝聞した事を記述した資料です。

ので、一文字一句正しい訳がありません。

が、一応、3世紀の日本列島のどこかにあったであろう国の事を記述した資料と拝せます。

一方、日本の古代のありさまを記述した、日本人が書いた正史は、「古事記」と「日本書紀」があります。

むしろ、こちらの正史を一文字、一句正しいと仮定して、日本の3世紀の出来事を考えた時、シナ人が記録した「魏志倭人伝」の「邪馬台国」に相当する国はどこだろうかと?か考えるべきではないでしょうか。



この邪馬台国論争の畿内説、北九州説は、ともに日本人が記述した自国の正史を無視していますよね。おかしいと思います。



日本書記にも古事記にも、「魏と冊封」した、「金印を授かった」、「魏に朝貢した」なんて記述は無いし、邪馬台国と言う名も卑弥呼と言う名も出てこないし、台与と言う名も無い。

それは、大和朝廷とは別の国の事が魏志には記述されてるからです。

これは明らかな事です。

もう一つ、神武天皇は西暦に対比すると紀元前660年(紀元前7世紀)の正月に奈良の橿原宮に朝廷を開いていますね。

という事は、西暦3世紀の奈良(大和地方)は邪馬台国ではなく、大倭(ヤマト朝廷)があったと言う事ですね。後の日本国です。

なので、纏向遺跡や箸墓古墳は大和朝廷の遺跡です。

邪馬台国ではない。ものすごくハッキリしています。



で、魏志倭人伝の記述する邪馬台国は、北九州より方角は南東です。

という事で、前提として、この南東方角に大和朝廷とは別の倭人の国があったと考えるべきでしょう。

実際、魏志倭人伝では東の海の先に倭種の別の国があると記述してるので、その東の別の倭人の国が奈良のヤマト朝廷だったと考えるべきです。

大和朝廷は「魏に朝貢していない」から、当然、魏の使者はそちらに行っていない。



この考察は、考え方として、魏志倭人伝が正しいならば、日本書紀・古事記も正しいと仮定しなければおかしくなります。

何故なら、どちらも、3世紀の日本の事についての記述があるからです。

どちらかが、正しく、どちらかが間違いとするのは「ずるい考え方」で、現在の邪馬台国論争の北九州説も畿内説も、この「ずるい考え方」のもとに議論されている。



私は、どちらの古文書も、一応正しいとして、魏志に記述があり、古事記・日本書紀に記述が無い邪馬台国と卑弥呼が何なのかを考えます。



景行天皇、ヤマトタケルの時代に、九州巡行、熊襲征伐が書かれてますが、この「熊襲」または、6世紀に日本書記、古事記に登場する南九州の「隼人」が邪馬台国・卑弥呼なのではないかと考えます。しかし、熊襲はどちらかと言うと狗奴国だろうと。

学者に言わせれば奇異な説でしょう。



古事記・日本書紀に出てくる「隼人」の先祖は、神武天皇の祖父の兄弟であるホデリ(海幸彦)にあたり、この先祖(ニニギノミコト)を同じくする南九州の「隼人」も自らは倭(やまと)または倭人(わじん)と呼んでいたと考えるからです。

何故なら、「隼人」(はやと・はやひと)と言う呼称は、7世紀の大和朝廷が華夷思想に基ずいて朝貢させていた自国域外の部族の国として呼称したからです。

隼人は、大和朝廷にそう呼ばれるまでは、自分たちは倭と言っていたでしょう。

何故なら、BC7世紀に奈良に移住した神武の一族と先祖は同じなのですから、彼らだけが倭ではないからです。むしろ、神武は”分家”であり、隼人側は”本家”です。

神武の出身地ですから。



私は、隼人と熊襲は別種族だと考えています。

熊襲は魏志に出てくる狗奴国でしょう。九州最南端の国という事で、曽於(宋)と球磨地方に跋扈する春秋戦国時代の「宋」から渡来した渡来人が熊襲だと考えるからです。春秋戦国の渡来人なので熊襲は強い。



景行天皇の九州巡業では、土蜘蛛と熊襲を平定したが、隼人を平定した記述はないです。隼人は同族ですから、平定なんてしないでしょう。

それに3世紀4世紀の応神天皇、仁徳天皇は日向(ひむか)から妃(きさき)を迎え皇后にしている事から、先祖の地である「ひむか」は、連合国だったと考えるからです。しかも、ひむか国は、律令制によりる日向、大隅、薩摩の三か国に分断される前の地域すべてが「ひむか(日向)国」だった事実があります。

当時としてはかなりの大国です。





結論を急ぎます。

魏志倭人伝の邪馬台国(やまと国)とは南九州の宮崎市あたり。神武天皇の故郷なので、当然ここは倭(やまと)だからです。また、卑弥呼は「ひむか」の音の当て。

台与は、豊の国(豊後の宇佐)の”とよ”の当て字と考えます。

對馬国は西都市(妻)あたりじゃないかな。



南九州の「ひむか国」が邪馬台国ならつじつまが合う事が多い。

・魏志の方角も合う(距離、行程もこじつければなんとでも)

・南には熊襲の薩摩がある

・3世紀には大和朝廷と結んでいたが大和朝廷とは独立した「ひむか」の国である。(外戚関係)7世紀に隼人の乱で征服されて3か国に分割統治された。

・蝦夷以外の大和朝廷に統治されていない大国(朝貢国)と考えられ、日本の正史にも登場する。

・隼人の習俗が、一部、魏志に合う。入れ墨等。

・7世紀に隼人を平定した時、人口調査をしており6万戸あった。

時代は下るが魏志の記述と合致。

・隼人は呪術に長けており、巫女を族長にする事もある。

・古事記・日本書紀に、大和朝廷の魏との冊封の記述が無い事に合致。

・南の狗奴国(熊襲)と戦争状態

・海幸彦が先祖であるから、海洋民族であり、大海を渡って魏に朝貢など余裕でできる。

・生目古墳は4世紀前半では西日本最大の前方後円墳(180メートル)

・本野原遺跡(もとのばるいせき)はBC4000年の縄文後期の西日本最大の集落遺跡で、「ひむか」は記紀の神代から栄えていた事が証明されている。



以上です。



長々とすいません。

お付き合いありがとうございました。





◆邪馬台国論争は一杯出てきますね。

畿内説と九州説。またその両方説も。



私は北部九州説を支持。

筑後川流域・・・久留米・朝倉地帯。

あと抗争していた南の狗奴国との戦争で

東の宇佐地方へ移動。

あと5世紀には倭の五王として宇佐から

畿内へ東征<記紀伝説>→ヤマト政権へ。





◆高校時代に書いてあることをそのままだどっていくと、海の上と聞きました。距離が間違えていた(方角は正しい)とすると九州説、方角を間違えていた(距離は正しい)とすると畿内説になると聞いています。

ですから朝鮮から畿内に行くために九州で曲がったところをまっすぐに伸ばせば、魏志の記述が正しかった場合の邪馬台国の位置になると思います。





◆全てを正しく読んだり、間違いを探して読めたとしても、異議が多数でると思うよ。 では、解読するより簡単に邪馬台国や卑弥呼を探せる方法はある。

宇佐八幡宮を掘り起こす。これでわかるはず。今は、宮内庁が、やらせないが、そのうち全てがばれる日がくるよ。今は、周りから調べているから、中々見つけれないはず。1つ言えるのは、邪馬台国は九州に有ったのは事実。畿内なら、船で行った方が早いし、山道で死ぬ確率より遥かに良い。





◆会稽東治については、後漢書に記載されている会稽東冶(とうや、現在の福建省福州市)ではないかとの説がある。しかし、東冶は260年以前、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかった。

会稽東治と会稽東冶では意味が違ってきます。



現在の上海あたりでしょう


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